2011-12-24

La fille en colère 「L'homme et la liberté?」



「自由」とは決断すること

サルトルは「自由」を、自ら選んだ方向へ「自己」を拘束することとした。
自己拘束。当然、「自由」にともなう「責任」を負わねばならない。
「人間は“自由”という刑に処せられている。」、刑に処されているというのは、人間は自分自身を作ったのではないからであり、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界の中に投げ出されたからには、人間は自分のなすこと一切について責任があるからである。

自分が置かれた状況のなかで、選択肢は二つある。「あれかこれか」。人間はいずれかを選択できる。逆に言えば、いずれかを選択しなければならないのである。
もちろん選択を回避することもできるであろう。しかし、回避することは、第三の選択肢を選んだこと
になる。それもまたひとつの選択なのだ。
各人は自らを選ぶことによって、全人類を選択する。もし私が結婚し、子どもを作ることを望んだら、たとえこの結婚がもっぱら私の境遇なり情熱なり欲望なりに基つくものであったとしても、私はそれによって、私自身だけでなく、人類全体を一夫一婦制の方向にアンガジェするのである。こうして私は、自分自身に対し、そして万人に対して責任を負い、私の選ぶある人間像をつくりあげる。
 そのつどの選択、決断によって、人間は自己を創造していくのである。

さて、選択した結果が予想通りであるかどうか、これは実際やってみなければわからない。
いわば「選択」とは「賭け」なのだ。
このサルトルの言う「賭け」では、自分自身が当事者(=主体)になる。 自分自身の人生を
まるごと賭けることになるのだ。

主体的に生きることがサルトルの「自由」なのである。

参考資料:『実存主義とはなにか』伊吹武彦訳

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