2011-12-25

「L'existence précède l'essence」






「実存は本質に先立つ」

『実存主義とは何か』 伊吹武彦訳  ジャン=ポール サルトル 人文書院、2000年刊

実存主義者に二種類ある。第一のものはキリスト教信者であって、その中にカトリック教を信じるヤスパースやガブリエル・マルセルを入れることができ よう。第二は無神論的実存主義者であって、その中にはハイデッガーやまたフランスの実存主義者、そして私自身を入れねばならぬ。この両者に共通なことは、 「実存は本質に先立つ」と考えていることである。あるいはこれを、「主体性から出発せねばならぬ」と言い換えてもよかろう。このことを正確にはどう理解す べきであろうか。

たとえば書物とかペーパー・ナイフのような、造られたある一つの物体を考えてみよう。この場合、この物体は、一つの概念を頭に描いた職人によって造られた ものである。職人はペーパー・ナイフの概念に頼り、またこの概念の一部をなす既存の製造技術―結局は一定の製造法―に頼った訳である。したがってペー パー・ナイフは、ある仕方で造られる物体であると同時に、一方では一定の用途を持っている。この物体が何に役立つかも知らずにペーパー・ナイフを造る人を 考えることはできないのである。ゆえに、ペーパー・ナイフに関しては、本質―すなわちペーパー・ナイフを製造し、ペーパー・ナイフを定義しうるための製造 や性質の全体―は、実存に先立つといえる。(中略)
私の代表する無神論的実存主義はいっそう論旨が一貫している。たとえ神が存在しなくても、実存が本質に先立つところの存在、何らかの概念によって定義されうる以前に実存している存在が一つある。その存在はすなわち人間、ハイデッガーのいう人間的現実(*)で ある、と無神論的実存主義は宣言するのである。実存が本質に先立つとは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世 界内に不意に姿をあらわし、その後で定義されるものだということを意味するのである。実存主義者の考える人間が定義不可能であるのは、人間は最初は何もの でもないからである。人間は後になってはじめて人間になるのであり、人間は自らが造ったところのものになるのである。このように人間の本質は存在しない。 その本性を考える神が存在しないからである。人間は、自らそう考えるところのものであるのみならず、自ら望むところのものであり、実存して後に自ら考える ところのもの、実存への飛躍の後に自ら望むところのもの、であるにすぎない。人間は自らつくるところのもの以外の何物でもない。以上が実存主義の第一の原 理なのである。(中略)
人間はまず、未来に向かって自らを投げるものであり、未来の中に自らを投企する(projet)ことを意識するものである。人間は腐蝕物やカリフラワーで はなく、まず第一に、主体的に自らを生きる投企なのである。この投企に先立っては何ものも存在しない。何ものも明瞭な神意のなかに存在してはいない。人間 は何よりも先に、自らかくあろうとした投企したところのものになるのである。自らかくあろうと意志したもの、ではない。というのは、我々がふつう意志と いっているのは、意識的な決定であり、これは我々の大部分にとっては、自らが造ったところのものの後に来るからである。私はある党派に加入し、書物を書 き、結婚することを意志しうる。しかし、それらは全て、いわゆる意志よりもいっそう根源的ないっそう自発的なある選択のあらわれに他ならないのである。し かし、もしはたして実存が本質に先立つものとすれば、人間は自らあるところのものに対して責任がある。(中略)
各人は自らを選ぶことによって、全人類を選択する。(中略)もし私が労働者であり、コミュニストになるよりもむしろキリスト教的シンジケートに加盟するこ とを選び、この加盟によって、諦めが結局は人間にふさわしい解決であり、人間の王国は地上には存在しないことを示そうとすれば、私は単に私個人をアンガ ジェするのではない。私は万人のために諦めようとするのであり、したがって私の行動は人類全体をアンガジェしたことになる。もっと個人的なことであるが、 もし私が結婚し、子供をつくることを望んだとしたら、たとえこの結婚がもっぱら私の境遇なり情熱なり欲望なりに基づくものであったとしても、私はそれに よって、私自身だけでなく、人類全体を一夫一婦制の方向にアンガジェするのである。こうして私は、私自身に対し、そして万人に対して責任を負い、私の選ぶ ある人間像をつくりあげる。私を選ぶことによって私は人間を選ぶのである。
(中略)ドストエフスキーは、「もし神が存在しないとしたら、全てが許されるだろう」と書いたが、それこそ実存主義の出発点である。いかにも、もし神が存 在しないなら全てが許される。したがって、人間は孤独である。なぜなら、人間はすがりつくべき可能性を自分の中にも自分の外にも見出し得ないからである。 人間はまず逃げ口上をみつけることができない。もし果たして実存が本質に先立つものとすれば、ある与えられ固定された人間性を頼りに説明することは決して できないだろう。いいかえれば、決定論は存在しない。人間は自由である。人間は自由そのものである。もし一方において神が存在しないとすれば、我々は自分 の行いを正当化する価値や命令を眼前に見出すことはできない。こうして我々は、我々の背後にもまた前方にも、明白な価値の領域に、正当化のための理由も逃 げ口上も持ってはいないのである。我々は逃げ口上もなく孤独である。このことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。刑に処せられていると いうのは、人間は自分自身を作ったのではないからであリ、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界の中に投げ出されたからには、人間は自分のなす こと一切について責任があるからである。

私どもが小説作品の中で、無気力な、弱い、卑劣な、いや時にはまったく悪辣な人間を描くのを人々が非難するのは、それらの人物が無気力で弱く卑劣であり、 または悪人であるからだけではない。というのは、もし私どもがゾラのように、これらの人物は遺伝のせいで、周囲なり社会なりの作用によってこうなのだ、有 機的なまたは心理的な決定論によってこうなのだと明言したとしたら、人々は安心して、「なるほど人間はそういうものだ。誰だってこれをどうしようもないの だ」というだろう。ところが実存主義者は卑劣漢を描くとき、「この卑劣漢は彼の卑劣さに対して責任がある」というのである。彼は卑劣な心臓、肺臓、脳髄を 持っているから卑劣なのではない。彼は生理的構造からそうなるのではなく、彼の行為によって自分を卑劣漢に作り上げたからそうなのである。
もし人間が卑劣漢に生まれついているなら何も心配はいらない。それはどうしようもないことで、何をしようとも一生涯卑劣なのである。もし英雄に生まれつい ているなら、これもまた何も心配はいらぬ。一生涯英雄である。英雄のように飲み、英雄のように食うであろう。実存主義者が言うのは、卑劣漢は自分を卑劣漢 にするのであり、英雄は自分を英雄にするのだということである。

出発点において、「われ思う、ゆえにわれあり」という真理以外の真理はありえない。これこそ、自分自身を捉える意識の絶対的真理である。
しかし我々がここに真理として到達する主体性は、厳密な個人的な主体性ではない。というのは我々は、コギトの中に自分自身だけをでなく、他者をも発見する ことを証明したからである。デカルトの哲学とは反対に、またカントの哲学とは反対に、我々は「われ思う」によって、他者の面前で我々自身を捉える。こうし て、コギトによって直接におのれを捉える人間は、全ての他者をも発見する。しかも他者を自己の存在条件として発見するのである。彼は他人がそうと認めない かぎり(彼は機知に富むとか、意地が悪いとか、嫉妬ぶかいとか人が言うその意味で)自分が何ものでもありえないことを理解している。私に関してのある事実 を握るためには、私は他者を通ってこなければならない。

しかし、ヒューマニズムには別の意味がある。それは結局こういうことを意味している。すなわち人間はたえず自分自身の外にあり、人間が人間を存在せ しめるのは、自分自身を投企し、自分を自分の外に失うことによってである。また一面、人間が存在しうるのは超越的目的を追求することによってである。人間 はこの乗り越えであり、この乗り越えに関連してのみ対象を捉えるのであるから、この乗り越えの真中、核心にある。人間的世界、人間的主体性の世界以外に世 界はない。人間を形成するものとしての超越と、人間は彼自身の中に閉ざされているのではなく、人間的世界の中に常に現存しているという意味での主体性と、 この二つのものの結合こそ、我々が実存主義的ヒューマニズムと呼ぶものなのである。

人間は本質を持たずに生まれてくる、本質よりもまず先に存在がある。



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