2011-12-31

Remember your humanity, and forget the rest.




Souvenez-vous de votre humanité. Oubliez le reste.

あなたがたの人間性を思い出し、そしてその他のことを忘れなさい。

ラッセル=アインシュタイン宣言の着想

(From: The Autobiography of B. Russell, v.3, 1967).

「人類の危機」と題する(1954年12月23日の)BBCクリスマス放送の'最後'を次のような言葉で結んだ。

「もし人々が皆その気になれば、人類の前には、幸福と知識と知恵の不断の進歩が横たわっている。それなのに争いを忘れることができないという理由で、死を選ぼうとするのか。私は一個の人間として(as a human being)、人間に向かって訴える。'人間性'を想い出しなさい。それ以外を忘れなさい。それができれば、新しいパラダイスヘの道が開ける。さもなければ、人類の絶滅しかないだろう。」

こ の放送の反響を知り、私は次に何を為すべきかを考えた。諸国の協力を得るために、全力を傾倒する必要があると悟った。資本主義国からも、共産主義国か らも、数多くの非常に有名で尊敬されている科学者達がこぞって進んで署名し、より一層彼ら(科学者達)と共同行動をとるように要請する声明文を作成するこ とも可能かも知れない、との考えが浮んだ。まずアインシュタイン博士に手紙でこの計画について打診した。彼の熱心な返事には、健康が勝れないから共鳴しそうな科学者の名前をあげることぐらいしかできないが、計画を至急実行に移すこと、私(=ラッセル)自身が声明書の草案を書いてほしいとの二点が書かれてあった。これが、宣言(発表)への出発点であった。英国国会の世界連邦委員会関係議員とともにローマに向かう飛行機の中で、アインシュタインの訃報をパイロットの機内アナウンスで知り、全く生きた心地がしなかったが、パリのホテルに到着すると、声明書に署名する旨の彼からの手紙が届いていたのでホッとした。彼の生涯での公的な最後の仕事の一つとなった。

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人類が直面している悲劇的な状況の中、科学者による会議を召集し、'大量破壊兵器'の開発によって生ずる危機について評価し、ここに添えられた草案の精神において(最後にあげた)'決議'について討議すべきであると、我々科学者は感じている。

私たちが今この機会に発言しているのは、特定の国民や大陸や信条の一員としてではなく、存続が危ぶまれている人類、即ち、'ヒト'という'種'の一員としてである。世界は紛争に満ちている。そうして、全ての小規模な紛争の上にかぶさっているのは、共産主義と反共産主義との巨大な戦いである。

政治的な関心の高い人々のほとんどは、こうした問題のいずれかに強い感情を抱いている。しかしできるならば、そのような感情から離れて、すばらしい歴史を持ち、私たちの誰一人としてその消滅を望むはずがない生物学上の種の成員として反省してもらいたい

私たちは、一方の陣営に対し、他の陣営に対するよりも強く訴えるような言葉は、一言も使わないように心がけよう。すべての人がひとしく危機にさらされており、もしこの危機が理解されれば、全ての陣営がその危険を回避する望みがある。

私たちは新たな思考法を学ぶ必要がある。私たちが自問しなければならないのは、私たちがいずれの陣営を好もうと、自分の好む陣営に軍事的勝利をもたらすためにはいかなる手段(処置・方法)をとればよいかということではない。なぜならそうした手段はもはや存在しないからである。私たちが自問すべきは、双方に悲惨な結末をもたらすにちがいない'軍事的な争い'をいかなる手段をとれば防止できるかである。

一般の人々、そして権威ある地位にある多くの人々でさえも、核戦争によっていかなる事態が発生するか、未だ認識していない。一般の人々はいまでも都市が抹殺されるくらいにしか考えていない。(たしかに)新型爆弾が旧型爆弾よりも強力だということ、原子爆弾なら1発で広島を抹殺できる(た)のに対し、水爆なら1発でロンドンやニューヨークやモスクワのような巨大都市を抹殺できるだろうことは、一般に理解されている。

水爆戦争になれば大都市は消滅するだろうことは疑問の余地がない。しかしこ れは、私たちが直面しなければならない小さな悲惨事の1つであ る。仮にロンドン、ニューヨーク、モスクワのすべての市民が絶滅したとしても、2、3世紀のあいだには世界は打撃から回復するかもしれない。しかしながら 今や私たちは、とくにビキニの実験以来、核爆弾はこれまで想像されていたよりもはるかに広範囲にわたってしだいに破壊力を拡大できることを理解している。

ごく信頼できる権威筋によると、現在では広島を破壊した爆弾の2,500倍も強力な爆弾を製造できるとのことである。もしそのような爆弾が地上近くまたは水中で爆発すれば、放射能をもった粒子が上空へ吹き上げられる。そしてそれらの粒子は'死の灰または雨(いわゆる「黒い雨」)'の形で徐々に落下してきて、地球の表面に降下する。日本の漁師たちとその漁獲物を汚染したのは、この'死の灰'であった。そのような死をもたらす放射能に汚染された粒子がどれほど広く拡散するのかは誰にもわからない。しかし最も権威ある人々は一致して水爆による戦争は実際に人類に終末をもたらす可能性があることを指摘している。もし多数の水爆が使用されるならば、全面的な死滅 -即死するものはほんのわずかだが、大部分のものは長い間病気の苦しみを味わい、肉体は崩壊してゆく、という恐れがある

著名な科学者や権威者たちや軍事戦略の権威者から、多くの警告が発せられている。(にもかかわらず、)最悪の結果が必ず起こるとは、だれも言おうとしない。 彼らが言っているのは、このような結果が起こる可能性があるということ、そしてだれもそういう結果が実際起こらないとは断言できないということである。こ の問題についての専門家の見解が彼らの政治上の立場や偏見に少しでも左右されたということは今まで見たことがない。私たちの調査で明らかになったかぎりで は、それらの見解はただそれぞれの専門家の知識の範囲にもとづいているだけである。一番よく知っている人が一番暗い見通しをもっていることがわかった。

さて、ここに私たちが皆さんに提出する問題、きびしく、恐ろしく、そして避けることのできない問題がある -即ち、私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか? -戦争を廃絶することはあまりにも困難であるという理由で、人々はこの二者択一という問題を面と向かってとり上げようとしないであろう。

戦争の廃絶は国家主権に不快な制限を要求するであろう。しかし、おそらく他のなにものにもまして事態の理解をさまたげているのは、「人類」という言葉が漠然としており、抽象的だと感じられる点にあるだろう。 危険は単にぼんやり感知される'人類'に対してだけではなく、自分自身や自分の子どもや孫たちに対して存在するのだが、人々はそれを想像力を働かせること によって認識することは、ほとんどできない。人々は個人としての自分たちめいめいと自分の愛する者たちが、苦しみもだえながら死滅するという、切迫した危 険状態にあるということをほとんど理解していない。そうして人々は、近代兵器さえ禁止されるなら、戦争は継続してもかまわないだろうと、思っている(希望的観測をしている/楽観している)

この思い(希望)は幻想である。たとえ水爆を使用しないといういかなる協定が'平時'(平和時)に結ばれていたとしても、戦時にはそのような協定はもはや拘束とは考えられず、戦争が起こるやいなや双方とも水爆の製造にとりかかるであろう。なぜなら、もし一方が水爆を製造して他方が製造しないとすれば、水爆を製造した側はかならず勝利するにちがいないからである。

軍備の全面的削減の一環としての核兵器放棄に関する協定は、 最終的な解決には結びつかないが、一定の重要な役割を果たすだろう。第一に、お よそ東西間の協定は、緊張緩和を目指すかぎり、いかなるものであっても有益である。第二に、熱核兵器の廃棄は、もし相手がこれを誠実に実行していることを 双方が信じていれば、現在双方を神経質的な不安状態に落とし入れている'真珠湾式の奇襲攻撃の恐怖'を減らすことになるであろう。それゆえ私たちは、ほん の第一歩ではあるが、そのような協定は歓迎すべきである。

大部分の人間は感情においては中立ではない。しかし人類として、私たちは次の ことを忘れてはならない。すなわち、もし東西間の問題が何らかの方法で解決さ れ、誰もが ―共産主義者であろうと反共産主義者であろうと、アジア人であろうとヨーロッパ人であろうと、またアメリカ人であろうと、また白人であろうと黒人であろう と―、何らかの可能な満足を得られなくてはならないとすれば、それらの問題は戦争によって解決してはならない。私たちは、東側においても西側においても、 このことが理解されることを望んでいる。

私たちの前には、もし私たちがそれを選ぶならば、幸福と知識の絶えまない進歩がある。私たちの争いを忘れることができないからといって、そのかわりに、私たちは死を選ぶのであろうか? 私たち(宣言署名者)は、人類として、人類に向かって訴える― あなたがたの人間性を思い出し、そしてその他のことを忘れなさい、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へむかって開けている。もしできないならば、あなたがたのまえには全面的な死(全体的破滅)の危険が横たわっている

決 議:

私たちはこの会議(後のパグウォッシュ会議)を招請し、その会議を通じて世界の科学者たちおよび一般大衆に、以下の'決議'に署名するよう勧める。

将 来の世界戦争においてはかならず核兵器が使用されるであろうし、そしてそのような兵器が人類の存続をおびやか しているという事実からみて、私たちは世界の諸政府に、彼らの目的が世界戦争によっては促進されないことを自覚し、このことを公然とみとめるよう勧告す る。したがってまた、私たちは彼らに、彼らのあいだのあらゆる紛争問題の解決のための平和的な手段をみいだすよう勧告する。」

                                  1955年7月9日 ロンドンにて

M.ボルン教授(ノーベル物理学賞)

P.W.ブリッジマン教授(ノーベル物理学賞)

A.アインシュタイン教授(ノーベル物理学賞)

L.インフェルト教授

F.ジョリオ・キュリー教授(ノーベル化学賞)

H.J.ムラー教授(ノーベル生理学・医学賞)

L.ポーリング教授(ノーベル化学賞)

C.F.パウエル教授(ノーベル物理学賞)

J.ロートブラット教授

B.ラッセル卿(ノーベル文学賞)

湯川秀樹教授(ノーベル物理学賞)

http://russell.cool.ne.jp/SENGEN-NENPYO.PDF

http://www005.upp.so-net.ne.jp/russell/RUSSELL-EINSTEIN.HTM

2011-12-25

「L'existence précède l'essence」






「実存は本質に先立つ」

『実存主義とは何か』 伊吹武彦訳  ジャン=ポール サルトル 人文書院、2000年刊

実存主義者に二種類ある。第一のものはキリスト教信者であって、その中にカトリック教を信じるヤスパースやガブリエル・マルセルを入れることができ よう。第二は無神論的実存主義者であって、その中にはハイデッガーやまたフランスの実存主義者、そして私自身を入れねばならぬ。この両者に共通なことは、 「実存は本質に先立つ」と考えていることである。あるいはこれを、「主体性から出発せねばならぬ」と言い換えてもよかろう。このことを正確にはどう理解す べきであろうか。

たとえば書物とかペーパー・ナイフのような、造られたある一つの物体を考えてみよう。この場合、この物体は、一つの概念を頭に描いた職人によって造られた ものである。職人はペーパー・ナイフの概念に頼り、またこの概念の一部をなす既存の製造技術―結局は一定の製造法―に頼った訳である。したがってペー パー・ナイフは、ある仕方で造られる物体であると同時に、一方では一定の用途を持っている。この物体が何に役立つかも知らずにペーパー・ナイフを造る人を 考えることはできないのである。ゆえに、ペーパー・ナイフに関しては、本質―すなわちペーパー・ナイフを製造し、ペーパー・ナイフを定義しうるための製造 や性質の全体―は、実存に先立つといえる。(中略)
私の代表する無神論的実存主義はいっそう論旨が一貫している。たとえ神が存在しなくても、実存が本質に先立つところの存在、何らかの概念によって定義されうる以前に実存している存在が一つある。その存在はすなわち人間、ハイデッガーのいう人間的現実(*)で ある、と無神論的実存主義は宣言するのである。実存が本質に先立つとは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世 界内に不意に姿をあらわし、その後で定義されるものだということを意味するのである。実存主義者の考える人間が定義不可能であるのは、人間は最初は何もの でもないからである。人間は後になってはじめて人間になるのであり、人間は自らが造ったところのものになるのである。このように人間の本質は存在しない。 その本性を考える神が存在しないからである。人間は、自らそう考えるところのものであるのみならず、自ら望むところのものであり、実存して後に自ら考える ところのもの、実存への飛躍の後に自ら望むところのもの、であるにすぎない。人間は自らつくるところのもの以外の何物でもない。以上が実存主義の第一の原 理なのである。(中略)
人間はまず、未来に向かって自らを投げるものであり、未来の中に自らを投企する(projet)ことを意識するものである。人間は腐蝕物やカリフラワーで はなく、まず第一に、主体的に自らを生きる投企なのである。この投企に先立っては何ものも存在しない。何ものも明瞭な神意のなかに存在してはいない。人間 は何よりも先に、自らかくあろうとした投企したところのものになるのである。自らかくあろうと意志したもの、ではない。というのは、我々がふつう意志と いっているのは、意識的な決定であり、これは我々の大部分にとっては、自らが造ったところのものの後に来るからである。私はある党派に加入し、書物を書 き、結婚することを意志しうる。しかし、それらは全て、いわゆる意志よりもいっそう根源的ないっそう自発的なある選択のあらわれに他ならないのである。し かし、もしはたして実存が本質に先立つものとすれば、人間は自らあるところのものに対して責任がある。(中略)
各人は自らを選ぶことによって、全人類を選択する。(中略)もし私が労働者であり、コミュニストになるよりもむしろキリスト教的シンジケートに加盟するこ とを選び、この加盟によって、諦めが結局は人間にふさわしい解決であり、人間の王国は地上には存在しないことを示そうとすれば、私は単に私個人をアンガ ジェするのではない。私は万人のために諦めようとするのであり、したがって私の行動は人類全体をアンガジェしたことになる。もっと個人的なことであるが、 もし私が結婚し、子供をつくることを望んだとしたら、たとえこの結婚がもっぱら私の境遇なり情熱なり欲望なりに基づくものであったとしても、私はそれに よって、私自身だけでなく、人類全体を一夫一婦制の方向にアンガジェするのである。こうして私は、私自身に対し、そして万人に対して責任を負い、私の選ぶ ある人間像をつくりあげる。私を選ぶことによって私は人間を選ぶのである。
(中略)ドストエフスキーは、「もし神が存在しないとしたら、全てが許されるだろう」と書いたが、それこそ実存主義の出発点である。いかにも、もし神が存 在しないなら全てが許される。したがって、人間は孤独である。なぜなら、人間はすがりつくべき可能性を自分の中にも自分の外にも見出し得ないからである。 人間はまず逃げ口上をみつけることができない。もし果たして実存が本質に先立つものとすれば、ある与えられ固定された人間性を頼りに説明することは決して できないだろう。いいかえれば、決定論は存在しない。人間は自由である。人間は自由そのものである。もし一方において神が存在しないとすれば、我々は自分 の行いを正当化する価値や命令を眼前に見出すことはできない。こうして我々は、我々の背後にもまた前方にも、明白な価値の領域に、正当化のための理由も逃 げ口上も持ってはいないのである。我々は逃げ口上もなく孤独である。このことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。刑に処せられていると いうのは、人間は自分自身を作ったのではないからであリ、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界の中に投げ出されたからには、人間は自分のなす こと一切について責任があるからである。

私どもが小説作品の中で、無気力な、弱い、卑劣な、いや時にはまったく悪辣な人間を描くのを人々が非難するのは、それらの人物が無気力で弱く卑劣であり、 または悪人であるからだけではない。というのは、もし私どもがゾラのように、これらの人物は遺伝のせいで、周囲なり社会なりの作用によってこうなのだ、有 機的なまたは心理的な決定論によってこうなのだと明言したとしたら、人々は安心して、「なるほど人間はそういうものだ。誰だってこれをどうしようもないの だ」というだろう。ところが実存主義者は卑劣漢を描くとき、「この卑劣漢は彼の卑劣さに対して責任がある」というのである。彼は卑劣な心臓、肺臓、脳髄を 持っているから卑劣なのではない。彼は生理的構造からそうなるのではなく、彼の行為によって自分を卑劣漢に作り上げたからそうなのである。
もし人間が卑劣漢に生まれついているなら何も心配はいらない。それはどうしようもないことで、何をしようとも一生涯卑劣なのである。もし英雄に生まれつい ているなら、これもまた何も心配はいらぬ。一生涯英雄である。英雄のように飲み、英雄のように食うであろう。実存主義者が言うのは、卑劣漢は自分を卑劣漢 にするのであり、英雄は自分を英雄にするのだということである。

出発点において、「われ思う、ゆえにわれあり」という真理以外の真理はありえない。これこそ、自分自身を捉える意識の絶対的真理である。
しかし我々がここに真理として到達する主体性は、厳密な個人的な主体性ではない。というのは我々は、コギトの中に自分自身だけをでなく、他者をも発見する ことを証明したからである。デカルトの哲学とは反対に、またカントの哲学とは反対に、我々は「われ思う」によって、他者の面前で我々自身を捉える。こうし て、コギトによって直接におのれを捉える人間は、全ての他者をも発見する。しかも他者を自己の存在条件として発見するのである。彼は他人がそうと認めない かぎり(彼は機知に富むとか、意地が悪いとか、嫉妬ぶかいとか人が言うその意味で)自分が何ものでもありえないことを理解している。私に関してのある事実 を握るためには、私は他者を通ってこなければならない。

しかし、ヒューマニズムには別の意味がある。それは結局こういうことを意味している。すなわち人間はたえず自分自身の外にあり、人間が人間を存在せ しめるのは、自分自身を投企し、自分を自分の外に失うことによってである。また一面、人間が存在しうるのは超越的目的を追求することによってである。人間 はこの乗り越えであり、この乗り越えに関連してのみ対象を捉えるのであるから、この乗り越えの真中、核心にある。人間的世界、人間的主体性の世界以外に世 界はない。人間を形成するものとしての超越と、人間は彼自身の中に閉ざされているのではなく、人間的世界の中に常に現存しているという意味での主体性と、 この二つのものの結合こそ、我々が実存主義的ヒューマニズムと呼ぶものなのである。

人間は本質を持たずに生まれてくる、本質よりもまず先に存在がある。



2011-12-24

La fille en colère 「L'homme et la liberté?」



「自由」とは決断すること

サルトルは「自由」を、自ら選んだ方向へ「自己」を拘束することとした。
自己拘束。当然、「自由」にともなう「責任」を負わねばならない。
「人間は“自由”という刑に処せられている。」、刑に処されているというのは、人間は自分自身を作ったのではないからであり、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界の中に投げ出されたからには、人間は自分のなすこと一切について責任があるからである。

自分が置かれた状況のなかで、選択肢は二つある。「あれかこれか」。人間はいずれかを選択できる。逆に言えば、いずれかを選択しなければならないのである。
もちろん選択を回避することもできるであろう。しかし、回避することは、第三の選択肢を選んだこと
になる。それもまたひとつの選択なのだ。
各人は自らを選ぶことによって、全人類を選択する。もし私が結婚し、子どもを作ることを望んだら、たとえこの結婚がもっぱら私の境遇なり情熱なり欲望なりに基つくものであったとしても、私はそれによって、私自身だけでなく、人類全体を一夫一婦制の方向にアンガジェするのである。こうして私は、自分自身に対し、そして万人に対して責任を負い、私の選ぶある人間像をつくりあげる。
 そのつどの選択、決断によって、人間は自己を創造していくのである。

さて、選択した結果が予想通りであるかどうか、これは実際やってみなければわからない。
いわば「選択」とは「賭け」なのだ。
このサルトルの言う「賭け」では、自分自身が当事者(=主体)になる。 自分自身の人生を
まるごと賭けることになるのだ。

主体的に生きることがサルトルの「自由」なのである。

参考資料:『実存主義とはなにか』伊吹武彦訳

2011-12-22

La fille en colère 「Ça m'embête de parler des philo, mais c'est le moment.」





Jean-paul Sartre

「現代の資本主義社会には生活はない。あるものはただ宿命だけだ。」


欧州におけるユダヤ人差別、米国などにおける黒人差別、資本家による労働者の搾取と抑圧、資本主義国による植民地の支配と収奪、それによって生じてきた第三世界の飢餓、等々現実 にはさまざまな支配と抑圧が存在する。大戦後、サルトルはアンガジュマン(社会参加)を強く提唱したが、そこにおいて彼が目指したのは、抑圧される人々の 側に立って人間の解放を実現することだったのである。

サルトルは、現代の資本主義に、何の希望も価値も見出していないのであろう。