オランダの写真家で友人の、圭子ヴェヴォロさんが開設したポッドキャストに、ゲスト出演させていただきました。うんちについて語り始めるとまだまだ足りないのですが、限られた時間の中で楽しんでおしゃべりさせてもらいました。
うんちっていつからあまり公言してはいけないものになったのだろう。
子どものころには、うんちって言葉を発するだけで笑いあって興奮してたのを思い出します。うんちが汚いものとして認識しだしたのは、学校に通いだして、共通認識を学んでからなのかな。では汚いものとして認識する前、私たちがそれを発して笑いあっていたころ、あのころ、いやもっと昔、記憶に及ばないほど小さかったころ、私はうんちと対話していたんじゃないかな、なんてぼんやりと考えています。 おしりから出てきたあの物体は、その出てくる一瞬前まで自分の一部だったもの。赤ちゃんはおむつを替えるとき、くさいって顔をしかめたりしません。時にはうんちを触ろうとします。
動物は自分のうんちを食べたり、ゴリラは相手を威嚇するために自分のうんちを投げたりします。栄養にも武器にもなる。動物はシンプルに生きているんだな。赤ちゃんも。
でもやはりうんちはくさい。くさいけれども、それは存在の臭い。
生きるって、多くのくさいものに囲まれていきていると思ったりします。それに蓋をしてはいけない。
ベルギーのアーティスト、Wim Delvoyeによる作品で、Cloaca といううんち製造マシーンがあります。
彼がCloaca にものを食べさせているビデオをみたのですが、子どものように大興奮して、マシーンの口部分(投入部分)にチョコレートを入れていました。食べさせていたという表現のほうが正しいのかな。
それはまるで、あの国民的人気アニメ、ドクタースランプ アラレちゃんの中で、アラレちゃんがうんちをつんつんして遊んでいる姿と重なりました。
うんちでおもしろがりたい、私も一緒に遊びたい、という心の声が聞こえたのでした。
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